統失ニートの再受験日記

大体は海水魚について書きます。統失ですが、医学部再受験しようと思います。

変なこと考えた

私は、子供の頃からずっと国語が苦手で国語力が無いのですが、センターでどうしても国語9割前後を取りたいので、河合の「現代文と格闘する」を何度も繰り返し読んでいます。もう10周くらいはしてると思うんですが、10週目にしてようやく文の意味を理解できた文章がありました。阿部謹也さんの「世間とは何か」という文章です。

 

要約すると、

19世紀欧米化に伴い、日本に「社会」と「個人」という概念が輸入された。しかし、この二つの概念は元々日本にはないので、一般の人はこれらの言葉をあまり用いなかった。一般の人たちはこれまで通り「社会」に似た概念「世間」を用いた。知識人たちは日本の社会の遅れの原因は、日本では個人という概念の形成が遅れているからであると論じてきた。

しかし、日本にも個人のような立ち位置は昔からあり、それは「世間」の中で形成されていく。阿部さんは、西欧の「社会」は個々として確立した「個人」の集まりにより形成され、日本の「個人のようなもの」は「世間」と相互作用しながら生み出されるもの。そして、今、「世間」を顕在化することで新しい社会性を生み出すことも可能である。

と論じています。

 

むーん…

何だか、たまにニュースで見る不祥事の謝罪会見が理解できたように思えます。欧米では何か不祥事を起こしたとき、それは起こした個人の問題として罰せられれば済むのですが、日本では、その組織のトップが出てきて頭を下げます。それは日本での「個人のようなもの」は「世間」(この場合不祥事を起こした組織)と相互作用することで形成されるので、その責任は「個人のようなもの」のみならず、それと相互作用している「世間」の問題でもあると捉えているからです。一般のテレビの前の人々も、それを個人だけの問題として捉えず、その組織にも責任があるとして、組織のイメージは著しく悪化すると思われます。例えば、日本で警官が暴力を働いたら、警官全体のイメージの悪化につながります。それは、ただ単に日本人が「抽象化」⇔「具体化」の区別ができていいないとかいう問題ではなく、日本では「個人のようなもの」の問題は「世間」の問題ともとらえているからです。つまり日本(少なくとも人間関係では)「抽象」⇔「具体」の問題は曖昧なものであると…

想像ですが、

欧米の「社会」=確立した「個人」の集まりで形成させるルール

日本の「世間」=「個人のようなもの」の融和体でその根拠となる確立したものは無い

このように考えてみると、日本人は草のように風になびき、確固たる判断基準を持たず、日本人という集団心理の中で、個々人の意思というよりも、全体の意思に従って進んでいく民族なんでしょうね。

なんだかこう考えてみると、日本人て共産主義的な民族なんだなと思いました。唯一の正解は無く、みんなで成り行きで行きつく先が正解。個々の幸せよりも全体での幸せを探していこう。

阿部さんは、「世間」を顕在化することで新しい社会性を生み出せる可能性があると論じていました。どういうことかというと、西欧のように「個人」を育てて「社会」を作っていくよりも、日本人は、日本人という大きな「世間」の中で一体となってみんなで進んでいくことができる人種なんだと思います。しかし、だからといって、ただ単にみんなが「世間」の中に身をゆだねて成り行きに任せるよりも、「世間」の役割をキチンを理解して、科学して?みんなの行き先の舵を、「世間」に身をゆだねながらも、合理的効率的に切っていけたら、もっとみんなが幸せな「世間ver2又は社会gradeup」みたいなものの中で生きていけるのではないかと、私は考えました。

 

何だか後半は妄想じみてしまいましたが、10周目にして、ようやく文の真意が解ってなんだか感動しましたので、記事にしました。

 

はあ(;´・ω・)

変なこと考えてたら、また、勉強時間を無駄にしてしまいました…